天草四郎 (江部四郎)

 あまくさしろう (えべ しろう)


画像は「魅惑の布人形」さんより拝借
(http://dolls.nunodoll.com/)


天草・島原の乱で有名な天草四郎、四郎は(生まれも?)育ちも宇土であり、親の苗字から 「益田四郎」もしくは、住居地で言うと「江部(えべ)四郎」と呼ぶのが本当でしょう。 このページでは宇土の住人であった、そのカリスマ性をもって、天草・島原の乱の首領に祭り上げられ、悲劇の生涯となってしまった江部四郎を探ってみたいと思います。


四郎は少なくとも9歳以降は宇土で育ったのは間違いないと思われますが、出生地については、宇土江部村説(現・宇土市旭町)、長崎説、大矢野説もあるようです。
●長崎説:『長崎実記』、 「四郎長崎東浜町中小橋西角之家にて出生元和八壬戌年誕生ス」とあり。
●大矢野村越之浦(現・上天草市大矢野町越之浦)説。
古文書有り?(天草TV)

長崎説では四郎の出生年まで記録されているようだが、父・益田甚兵衛の記録はないのだろうか?家族の記録は?誰が書いたの?出生記録があるというのが返って疑わしいと思うのですが?



リンク集

四郎年表 (年表による、四郎家族の身上調べ:疑問点)
天草四郎時貞WEB (天草四郎と天草島原一揆・日本のキリシタン情報)
キリシタンの旗(天草四郎をテーマとしたホームページ)リンク切れ
天草四郎〜16歳の少年に何が起きたのか? (本渡市ホームページ)
天草の乱資料集(熊本大学附属図書館資料展より)リンク切れ
天草砥石が軍資金? (天草豆知識)
司馬遼太郎街道をゆく記述 (外科医・山内昌一郎のホームページ)
天草四郎陣中旗 (外科医・山内昌一郎のホームページ)
原城の戦いと島原・天草の乱を考え直す(服部英雄のホームページ)
天草四郎の足跡 (インダストリア)
原城址・島原の乱情報(南有馬町ホームページ)
観光四郎像画像 (濱崎ホームページ)

宣教師達の一面 (キリシタン殉教の地に思う・「マセマティック放浪記」)
天草・島原の乱概要 (八代市未来博物館秋季展覧会鑑賞の手引き・PDF文書)
乱後の天草(RKK開局50周年記念特別企画「天領・天草 鈴木重成公没後350年」)
魅惑の布人形(南蛮風俗) (四郎のお人形、なんか惹かれるものがあります)
最古の四郎像 (元文4年1739年日本最古の四郎像?天草テレビ)

江部(旭町)屋敷跡の案板内内容

  「天草四郎ゆかりの里」    昭和33年3月13日宇土市文化財指定 
寛永十四年(西暦1637年)に起こった天草,島原の乱の首領となった天草四郎時貞のゆかりの地であり,この付近(宇土市旭町江部)に住んでいたと伝えらる。曹洞禅宗の如来寺(現、宇土市岩古曽町)で学び、長崎へは頻繁に行き来していたようである。天草、島原の乱は、キリシタン弾圧と厳しい年貢の取り立てに対して起こったものであり、天草・島原の農民約三万七千人が幕府側十万余人に対して果敢に戦ったもので、原城の攻防は九十日間に及んだ。  天草四郎は,キリシタン大名小西行長の遺臣であった益田甚兵衛の子で、元は益田四郎時貞といい,洗礼名はジェロニモ、後にフランシスコと改めた。首領となったのは16歳の時であり、江部に住んでいた四郎の母,姉,妹は捕らえられ、原城に立てこもっていた一揆軍に対して降伏を促すための人質になった。   
             平成2年6月2日    宇土市教育委員会  


←屋敷跡に建つ 天草四郎ゆかりの地 案内板
←案内板横の石碑
←屋敷跡、今は空き地、上の案内板と標識(テントの左にあります)があるのみ。オレンジの家の先に船場川があります。
左の画像の位置は、小西城(宇土城)想像図をご覧下さい。想像図の右端に表示されている「グラウンド」、現在の市民グラウンド(運動公園)のすぐそばになります。

←屋敷跡のすぐ横を流れる船場川、上流(左)に行くと 宇土城の近く、さらに上流は宇土城址・轟水源に続き、下流(右)は有明海に続きます。 四郎はこの場所で水遊びをしたと考えられます。
←上のの画像を反対側から撮ったもの、宇土城(小西城)は画面の右前方に位置します

四郎母・渡辺小左衛門申口書

「幕府上使松平信綱・戸田氏銕は、寛永15年正月22日、細川氏のもとで入牢中の四郎母・姉、渡辺小左衛門ら10人を原城の陣場に呼び寄せ、まず直々に吟味する。No.20は、細川家の吟味奉行乃美市郎兵衛・町市之充による四郎母・渡辺小左衛門の取調べ書である。四郎母は、「四郎時貞年ハ十六歳、九ツノ年より手習三年仕候、学問五六年程仕候、四郎長崎ヘ節々参学問仕候、京大阪ヘハ不参候、四郎九月晦日ニ大矢野ヘ参候而、宿ハ小左衛門弟所ニ罷在候、小左衛門弟ハ四郎姉聟ニ而御座候」と供述している。四郎が寛永14年9月晦日に大矢野に渡ったとすれば、一揆の直前まで宇土郡江部村にいたことになるが、それにしては何とも曖昧な供述である。」
     四郎母・渡辺小左衛門申口書(熊本大学附属図書館資料展より)

「郡浦(こうのうら)事件に関する覚書」

寛永14年(1637年)、島原で一揆の火の手が上がり、天草にも代官の誅求が続き、一触即発の危機をはらんでいた。その9月末に四郎は、姉レシイナの嫁ぎ先である天草大矢野の浦越にある小左衛門の弟、渡辺佐太郎の家を訪れたまま、未だ宇土に帰っていない。四郎の父、益田甚兵衛が10月に10月始め四郎を迎えに行くと称して天草へ行ったが、”四郎が小瘡(こがさ)を患っている”といって、そのまま二人は天草に行ったまま宇土に帰ってこない。」 (乱の不穏の動きに備え)郡浦では、総庄屋・彦左衛門が警戒に当たっていたところ、一艘の船が船津に着船した。その中に、一揆の中心人物の一人とされる、上記の渡辺小左衛門がおり、宇土の様子・宇土までの道路事情を聞かんとするが、不審尋問され、捕縛されてしまう・・・自白によると、小左衛門来航の目的は、四郎の縁者一門を密かに天草に連れ越すことにあった・・・・と言う具合の事件の顛末が記録されている古文書です。 参照:

「如来寺」

古文書が出てきて、四郎がここで素養を身に付けた言われていますが、その確かな証拠文書はないようです。それでも、関係年表を書いておきます。ここは曹洞宗のお寺ですが、切支丹の洗礼を受けていたであろう四郎が、なぜ禅寺かという一寸した疑問もあります。それに、小西の遺臣で学問のある者が近くにいたと思われるし、江部から如来寺に到るには、相当の距離(子供なら1時間は掛かる?)もあるし、どうなんでしょう?

 現在の如来寺画像紹介(インダストリア・上村小雪さんのページです)

●正元2(1260)寒巌義尹、尼修寧とともに如来院を創建(如来寺釈迦如来胎内銘)
●文永6(1269)義尹、素妙厄の請いにより三日山如来寺を開山(如来寺遺跡)
●弘安6(1283)義尹、大慈寺(熊本市)創建
●永仁7(1299)義尹、如来寺に隠居
●正平2(1347)足利尊氏、国毎に一寺一塔を建立(肥後安国寺を安国寺跡、利生塔を如来寺の塔に充てた)
●永正 元(1504)如来寺、上古閑に移る
●天正16(1588)小西行長、宇土・天草・八代・益城24万石を領する
●小西行長の宇土城
●1622年又は1623年?四郎生誕
●1630年、四郎8歳
●寛永14(1637)天草・島原の乱起こる四郎16歳
    江部村にいた天草四郎の母姉捕まる

参照:

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