天草四郎は宇土で生まれ育った!?


四郎生い立ち年表


画像は「魅惑の布人形」さんより拝借
(http://dolls.nunodoll.com/)

江部四郎、または、益田四郎、いわゆる、天草・島原の乱で有名な「天草四郎」については、資料が少なく、その実像は謎に包まれています。乱の当時、四郎及び家族は宇土は江部の住人(現:宇土市旭町)であったのは間違いないころです。四郎の父・(益田)甚兵衛は、キリシタン大名・小西行長の家臣であったとされますが、行長の居城である宇土城詰めであったのか、また、宇土城落城後、どうしたのか?疑問点がたくさんあります。公文書として信頼し得る資料の殆どは細川藩に残された文書であり、後は民間に伝わる伝承話が多いようです。そこで、細川藩に残された文書等、乱の折の関係者の供述を基準として年表を作り、その時々の疑問点を考える事によって、四郎の実像に迫ってみたいと思います。


四郎が宇土生まれかどうかは、生年1622年に四郎一家が宇土に居たかどうかです。父・甚兵衛は小西行長の家臣とされていますので、1600年宇土城落城の折り、
(1)所領が安堵され、そのまま、宇土に住み着いていた。
(2)長崎へ逃れた、そしてまた、宇土に戻ったの、二通り考えられます。(2)の場合、いつ戻ったかという事になります。
年齢の基準は、四郎の母の供述です。細川家文書に「四郎時貞年ハ十六歳、九ツノ年より手習三年仕候、学問五六年程仕候、四郎長崎ヘ節々参学問仕候、京大阪ヘハ不参候、四郎九月晦日ニ大矢野ヘ参候而、宿ハ小左衛門弟所ニ罷在候、小左衛門弟ハ四郎姉聟ニ而御座候」とあり、9歳時(1630年)には宇土に居た事が分かります。1622年が四郎の生年、1621年に一家が宇土にいたことが証明できれば、四郎は宇土で生まれ育った、宇土の住人であったということになります。少なくとも状況証拠的にでも証明出来るのではないかと思っておりますが、はたして?


 年号・家族年齢 出来事・疑問点
1574年(天正2年)
甚兵衛誕生
(一説には1579年)天草生まれ?長崎生まれ?
1588年(天正16年)
甚兵衛14歳
小西行長、宇土(天草・八代・益城)二十四万石の領主に
1589年(天正17年)
甚兵衛15歳
小西行長、天草五人衆を平定
1591年(天正19年)
甚兵衛18歳
宣教師養成のための学校、大神学院(コレジオ)、・修練院(ノビシアート)が開校。
甚兵衛は入学しなかったか?
1592年(文禄元年)
甚兵衛18歳
一度目の朝鮮出兵(文禄の役) 
徴兵されなかったのか?宇土城詰?
1597年(慶長2年)
甚兵衛23歳
二度目の朝鮮出兵(慶長の役)
宇土城詰?
1598年(慶長3年) 秀吉死去 朝鮮撤退
1600年(慶長5年)
甚兵衛26歳
関が原の戦い 小西軍敗退 行長処刑
1600年(慶長5年)
甚兵衛26歳
四郎母13歳
宇土城落城 (清正は篭城者の所領安堵・召し抱え?)
甚兵衛は半農半士として宇土に土着?
長崎に行った?
  
1600年〜1616年
甚兵衛26歳〜42歳
四郎母13歳〜29歳
四郎姉誕生〜2歳
長崎在住16年?経済面はどうしていたのか?なぜ長崎へ?
ちなみに
姉は  父41歳母28歳のときの子
四郎は父48歳母34歳のときの子
妹は   父54歳母41歳のときの子
注:姉がもう一人いた? 甚兵衛は再婚で四郎母は後入?(説あり)
1600年(慶長5年) 清正、(小西領を含め)肥後51万5千石の領主に 
1601年(慶長6年) 小西(内藤)如安53歳 息子・采女と共に清正の家臣に
如安5千石・采女3千石 甚兵衛はどうであったか?
1602年(慶長7年) 清正、如安親子に棄教を迫る 
1603年(慶長8年) 如安親子、島原に脱出、旧友・高山右近の幹旋で加賀前田家に召抱え
甚兵衛が長崎へ行った理由も同じ状態であったろう?
1614年(慶長19年) 家康、全国にキリシタン禁教令 弾圧始まる
1616年(元和2年) 家康死去  秀忠、キリシタン禁教を強化
如安、金沢を去りマニラへ
元和2年6月、有馬氏のあと、島原新領主として松倉重政入部。

この禁教強化が長崎から宇土への原因か?
1617年(元和3年)頃
甚兵衛43歳
四郎母30歳
四郎姉 2歳
甚兵衛、長崎から宇土江部へ移住?いまさらなぜ宇土へ?
経済面は?所領があったのか?幹旋する者がいたのか?

1622年(元和8年)
甚兵衛48歳
母   35歳
姉    9歳
四郎  0歳
四郎誕生 (1623年説もあり)
1617年宇土移住とすると、四郎は宇土生まれとなる?
長崎生まれとするなら、1623年以降に宇土に移住したことになる?
姉は15歳位で(1628年位)に嫁に、その時は、もう宇土に居た。その6年前が、四郎の誕生。
1630年(寛永7年)
甚兵衛56歳
母   43歳
姉   17歳
四郎  9歳
四郎9歳
「四郎、9歳の時より手習い3年・学問5〜6年、長崎へは時折り学問の為に行った」母の供述
1632年(寛永9年)
甚兵衛58歳
母   45歳
姉   19歳
四郎  11歳
加藤家改易、
細川忠利、肥後54万石の領主に
1637年(寛永14)
甚兵衛63歳
母   50歳
姉   22歳
四郎  16歳
妹       7歳
天草・島原の乱起る
姉はなぜ宇土に居たのか?
姉の子小平は6歳だから、15歳のときには嫁に、その時、四郎は9歳
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「リンク」
天草四郎時貞WEB

四郎及び家族・関係人物・一揆のあらまし・キリシタン禁制史・資料紹介などなど、四郎に 関してはまずここを。
熊本大学電子図書館・天草四郎
 (熊本大学附属図書館第16回特殊資料展) 細川家文書解説付
細川藩の殉教者達の足跡
戦国エクスポネット
家臣団の構成 戦国時代の身分制度
どんくのつぶやき
行長と五人衆の戦い


「疑問点及び参考文章」

(1)益田甚兵衛は天草?長崎?生まれ
(2)行長が宇土の領主となった当時、甚兵衛14歳。小西の家来になったのはいつ頃か?当時の雇用状態はどうだったのか?小西の家来になった(なれた)のは、なぜか?甚兵衛は宇土城詰めだったのかどうか?
(3)天草の、甚兵衛の親戚は?
(4)落城時、甚兵衛26歳、妻帯していた?四郎の母が妻とすると、13歳では若すぎるか?せめて15〜6歳?当時の結婚適齢期は 14才〜17才
( 5) 甚兵衛は、落城後、天草でなく、なぜ長崎へ行ったのか?
(6)どうも、母の出産年齢が高すぎるような感じがするが、当時はどうであったのか?甚兵衛再婚説あり、それにしても。当時はどうであったか?
(7) 四郎が長崎生まれだとすると、ぎりぎり1622年まで長崎にいたという計算で、長崎在住16年。長崎から何故、宇土へ?1623年から宇土にとすると、宇土在住20年という計算。宇土城落城時から、ずっと宇土とすると、在住37年。
(8) 益田甚兵衛は浪人後、長崎に行ったとして、16年後に、なぜ宇土に帰農したのか(出来たのか)

(9)内藤如安
朝鮮の役の時の和平の立役者、小西ジョアン(内藤如安)という学問に秀でた武将がいましたので、融和策と将来の家来の育成として若者が採用されたのではないか? 当時の家来採用の基準はどうだったのだろうか?(1602慶長七、如安一族は有馬晴信の誘いを受けて平戸へ逃れ、更に右近の周旋で年内に加賀へ移り住む。五十二歳位。右近と如安は布教と茶道に精進し、右近は南坊、如安は徳安と号す)
(10)馬回り衆
若手を手塩にかけて育てる 意外に思うかもしれないが、信長は家臣との人間関係を随分大事にしていた。家臣の次男三男を小さな頃から引き取り、そばに置いて手塩にかけて育ているのである。信長は、この若い衆を家族同然に可愛がっていた。若い衆が元服を迎えると、烏帽子親となり、祝ってあげた。成人したら、嫁までみつけてあげた。若い衆は、成長すると“馬回り衆”となり、信長を守る親衛隊になった。例えば前田利家も、その一人である。この馬回り衆は、信長のためなら死をも覚悟して戦うつわものに成長した。
(引用先)
(11)甚兵衛の禄高は?所領は?
(12)武士の結婚年齢
近世は兵農分離。武士が城下に住み、農業をしなくなったと教えられているが、実態は複雑だった。足軽以下の者の多くは 農村に住み、牛馬を飼い農業をする者が珍しくない。「侍・徒士・足軽以下」の「身分内身分」によって、生活の様相は 大きく異なっていた。端的な例が、結婚年齢だ。エリート侍は 20才代前半で結婚するが、徒士は30才近くまで結婚できない。 貧困ゆえである。さらに、エリート侍のほうが子だくさんで寿命が 長かった。侍は「門閥家柄の人」だから、少々息子の出来が悪くて も家督相続に問題はない。しかし、徒士は事務員だから無能では 勤まらない。相続の際に読み書き・ソロバンの能力が問われた。 足軽には百姓町人も採用されたが、徒士以上にはめったに出世できなかった。(引用先)
(13)戦国時代の身分制度
私たちは、江戸時代の士農工商という身分制度の印象が強いため、戦国時代もほぼ似たようなものと考えがちですが、当時の身分制度はもっと流動的であったようです。まず、武士と百姓の違いは紙一重で、半農半士の土豪の場合、軍役を努めれば武士で年貢を納めれば百姓として扱う、といった程度の違いでしかなかったようです。また、商人から武士になったり、僧侶から武士になったり、その逆も多かったわけです。 このように、身分に流動性があったことを知ると、当時の豪商のなかには、意外に武士からの転身組が多いことも、なんとなく納得がいきます。そしてそれが原因ではないのですが、戦国時代の豪商ともなると、武将とほとんど対等な立場であったらしく、秀吉が行なった茶会の席次なども、大名で言えばだいたい五万石から十万石のランクに位置したといいます(引用先)
(14)家臣団の構成
「一門衆」は領主の血縁にあたる一族で、家臣団の最上位。
「譜代衆」は古くから仕えていた家臣で、家臣団の名門。
「国衆」は領国内に土着していた武士。
「新参衆」は戦争で敗れ、土地を併合された結果新たに家臣となった人たち
馬に乗ることができる侍、歩兵である足軽、「一領具足」といわれた臨時の足軽など。
「寄親(家臣団の有力者がなる)」が統率する浪人や農民(引用先)
(15)「徴兵」(農民の動員)
動員兵力数の全てが武士だった訳ではなく、ほとんどは強制動員された農民であった。武士が15%程度で、あとは農民・下人の比率であった。農民は十五歳以上、六十歳以下とかの、年齢巾を設けての動員された。 顕著な例として有名なのは、四国の長宗我部氏によって行われた 「一領具足」(平時は農耕という半農半兵) がある。戦国時代の合戦は、その大多数が農民で構成されていた。
(引用先)フロンティア・サイド
(16)武士の禄高(江戸時代の例)
「知行取り」と「扶米取り」の 2種類があった。
知行
200石取りの場合、表高が200石の土地を拝領する。豊作不作で収入に影響
扶米200俵取りの場合(約80石)、収穫の4割を領主、6割を領民。豊作不作にかかわらず実米が支給。米は蔵前の札差で換金。各藩士の場合は、藩札を換金した。各藩の家臣名録を見ると、そのほとんどは10石〜30石取りの武士、いわゆる徒士侍(かちざむらい)と呼ばれる武士たちである。しかし、徒士と云っても足軽と比べた場合、両者の間には身分に相当の隔たりがあった。足軽が徒士の家を訪ねた時には、玄関の式台の下、つまり土間に膝をついて挨拶をしなければならなかったと云う。身分格差のうるさい土佐藩などは、郷士(足軽)が路上で侍と会った時は、履物を脱いで土下座しなければならなかった。話をもとに戻すが、 200 石取りの武士とは、足軽が土下座しなければならない徒士侍にとってでさえ「雲の上の人」のごとき存在であった。(引用先)
(17) 甚兵衛は、天草コレジオで学んだのではないか?その後、行長の家臣に?朝鮮の役では徴兵されなかったのか?
(18)江部、四郎一家の隣にいた庄屋次兵衛一類は全員赦免
渡辺小左衛門の「宿主」となった宇土郡郡浦の九郎右衛門は「心ハきりしたん」であることを供述し、家族全員死罪とされる。なお、天草四郎の在所とされる宇土郡江部村の庄屋次兵衛一類は忠利の判断で全員赦免され、上使へ伺いを立ててはいない。庄屋次兵衛などは、隣に住んでいたという四郎およびその家族について最も客観的に供述できる立場にあったであろうが、結局、藩当局は在所の庄屋からも具体的な供述を引き出しえていない。宇土郡江部村にいたという四郎と天草四郎なる人物との間には、人為的な乖離を感じる。
(引用先))熊本大学電子図書館・天草四郎
(19)「四郎母・渡辺小左衛門の取調べ書」
細川家の吟味奉行乃美市郎兵衛・町市之充による四郎母・渡辺小左衛門の取調べ書である。四郎母は、「四郎時貞年ハ十六歳、九ツノ年より手習三年仕候、学問五六年程仕候、四郎長崎ヘ節々参学問仕候、京大阪ヘハ不参候、四郎九月晦日ニ大矢野ヘ参候而、宿ハ小左衛門弟所ニ罷在候、小左衛門弟ハ四郎姉聟ニ而御座候」と供述している。四郎が寛永14年9月晦日に大矢野に渡ったとすれば、一揆の直前まで宇土郡江部村にいたことになるが、それにしては何とも曖昧な供述である。
(引用先)熊本大学電子図書館・天草四郎
(20)天草を平定した小西行長は、「豊臣秀吉」の命を受け浦々水夫を60才以下15才までを徴して、朝鮮出兵の準備をする。 徴兵されたのでは?半農半漁であったら徴兵された可能性?
(21)四郎の教養はどこからきたか?父?母?農家の息子の学問、当時の教育とは?長崎へ短期留学、働き手なのに。益田家の経済状態は?
(22)加藤清正は篭城者の知行を安堵(反故にしたという説もあり)。甚兵衛は、宇土に所領があった? 行長が西軍の有力武将として関ヶ原へ向かうと、在所の清正は行長の宇土城を攻める。開城の条件として、知行の安堵と召抱えを提案、落城後、行長の家臣(子弟を?)を清正の家臣とす、熊本市「宇土小路」は住まいしたところとかいう。
(23)長崎出生説
『長崎実記』に「四郎長崎東浜町中小橋西角之家にて出生元和八壬戌年誕生ス」とあるそうですが・・・(天草四郎時貞WEBより)
(24)姉? 詳細不明。ただ、母が捕らえられた折、松平伊豆守の取立てによる申し出で、“(渡辺もう一人の小左衛門の弟は四郎の姉婿に当たっている”との供述から、渡辺左太郎(次男)がこの姉の夫ということになります。が、もう一人の姉に関しての他の資料がみられません。 渡辺左太郎(渡辺家次男)が夫とされています。乱当時17〜18歳?次姉?
天草四郎時貞WEB
●「石高の価値」
200石取りの武士と云えば小藩では組頭(くみがしら)ぐらいの身分であり、文官なら郡奉行(こおりぶぎょう)に相当する役付である。大藩においても 200石取りは決して下級武士ではない。将軍家直参の場合、200石取りは御目見え(直接将軍にあうことが出来る身分)であり、御役目のおりには裃を着用しなければならない。収入も、現在の年収にすれば(幕末換算にて)2000万〜2500万ぐらいの収入がある。住まいは、かぶき門つきの屋敷で、敷地は少なく見積もっても 200坪はあるだろう。奉公人は最低でも、侍人、中間人、奥むき女中人、下男下女人、計人はいるとみて良いはずである。最低でも、それぐらい揃えないことには200石取りの対面が保てないのである。登城の行き帰りには槍持ち、はさみ箱持ち、供侍がつく。もちろん馬に乗れる身分である。 もっとも、江戸中期以降は馬を養う余裕もなく、公用のおりなどは藩から貸し出しの馬を借り、公用がすむと返すと云うような、現代のレンタ・カーのような制度があったようである。(引用先) 100石取りの武士」と云う言葉を耳にするが、100 石の知行があれば、江戸前期までは代え馬が持てるぐらいの身分であり、また余裕もあったのであろう。つまり、セカンド・カーが持てたと云うことであり、戦場では立派な騎馬武者である。  10年ほど前に読んだある書物に「1両は現在の貨幣価値に換算すると10万円ぐらいだろう」とあった。 10年間の物価高騰を考慮すると200両の蓄えがあると云うことになり、現在に置き換えると3000万の銀行預金があると云うことになる。これはもう、間違っても貧乏とは云えない。
清和夜話時代劇と武家
●天草五人衆
小西行長は、天正17年(1589年)宇土城築城に当たり、城普請の加勢を天草五人衆に要請したが、五人衆(栖本・上津浦・大矢野・志岐・天草)之に従わず、小西行長と天草連合軍は戦いとなり、行長は、3千の兵を袋湾(富岡)に差し向けたが、志岐の城主「志岐麟泉」一挙に全軍を屠ってしまった。あわてた小西行長は、「加藤清正」に援軍を依頼する。加藤清正は1万の兵を以て志岐城を破り、さらに、仏木坂に「木山弾正」を破り、「天草伊豆守」を下した。「天草伊豆守」は、キリシタン名を「ドン・アンドレア」と言い、熱心なキリシタンである。天正17年11月25日、本渡の城に「伊豆守種元」は、1300余名のキリシタンとともに運命をともにしたが、此の際の婦人の奮闘は雄々しく天草の人々の語り種として永く伝えられている。天草一族の中の、河浦城主「天草主人」は生き残って「小西行長」に仕え、その子孫は深海小学校の教師として赴任した事がある。天草を平定した小西行長は、「豊臣秀吉」の命を受け浦々水夫を60才以下15才までを徴して、朝鮮出兵の準備をする。(引用先)
●天正19年(1591年)天草に大神学院・修練院開校。
大神学院(だいしんがくいん)
コレジヨ(ラテン語で大学という意味。英語のcollegeにあたる)。日本には1581年から1614年まで34年ものあいだ存続した。名のみの学校ではなく、  当時西洋最高の学問水準が導入されていた
 修練院(しゅうれんいん)
ノビシアート。コレジヨ(大神学校)の前段としてあるセミナリヨ(中   等学校=小神学校)との中段としてある。
  最初に創設されたのは、豊後の臼杵である(1579年12月)。
                  (参照:サイバー切支丹館-天草切支丹史)
「カレッジ」にあたるポルトガル語の「コレジヨ」。そこではキリスト教の信仰だけでなく印刷や音楽などヨーロッパの進んだ技術、学問、思想など最先端の情報や文化を日本の若者たちに伝えた。 当時、世界へ開かれた唯一の窓口、それが天草コレジヨだった。宣教師の養成を目的とした大神学校は、当初、豊後の府内(現・大分市)に設けられたが、その後各地を流転する。 1591年から97年までの7年間は天草に置かれた。河浦町か本渡市か?その所在については定かではない。 天草コレジヨでは、各地のセミナリオ(小神学校)、ノビシャード(修練院)で学んだ若者たちの中から優秀な者を選りすぐって、神学をはじめ、ラテン文学、日本文学などを教えた。学生の中には伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンら少年使節たちも含まれていた。 『フロイス年報』によれば、天草では教会所有の民家などのほか、天草氏が与えた数軒の家をコレジヨの施設として使っていた。 そこには教会関係者が50〜60人、学生・使用人など100人程が集まって生活していた。明治の開国に先立つこと260年余り。西洋文化の薫りを日本にもたらした天草コレジヨは、自由な精神と開かれた世界観で日本の文明開化を先取りするものだった。 そして、その高い精神性や国際性は、その後も絶えることなく天草人の心から心へと受け継がれている。
引用:キリシタン文化の揺籃・天草コレジョ
●コレジオはキリスト教の日本布教展開のなかで、宣教師養成のための学校として作られた。日本には1581年から1614年まで34年ものあいだ存続した。コレジオは英語ならカレッジにあたり、ラテン語で大学という意味である。「コレジオ」は大神学院(だいしんがくいん)と呼ばれ、日本ではじめてのコレジオは、1580年(天正8年)に豊後(大分)府内で、イエズス会の手によって開かれ、10年後には島原の加津佐に。この頃すでに、秀吉により切支丹禁令が出ていたが、領主が切支丹であり黙認されていたようである。しかし、朝鮮出兵にあたり秀吉の目がより届きにくい天草に、コレジオは移転・開校された。(引用先)
1591年、天草に大神学院と修練院 が設置され、遣欧使節の四少年 も入校。ここでは全寮制の集団教育がなされた。全過程10年ほどのカリキュラムが組まれており、ラテン語・ポルトガル語などの語学、暦学・気象学・天文学などの自然科学、哲学・日本文学・ローマの古典文学などの文学課程、それから神学課程、他に 西洋音楽、宗教絵画と、当時としては西洋最高の学問水準が導入され教えられていた。そこでは遣欧少年使節がヨーロッパから持ち帰った金属活字印刷機で、日本で初めて「イソップ物語」や「平家物語」が(ローマ字)印刷された。1597年、長崎に移転。(引用先)
※修練院(しゅうれんいん) ノビシアート。コレジヨ(大神学校)の前段としてあるセミナリヨ(中等学校=小神学校)との中段としてある。 最初に創設されたのは、天正19年(1591年)安土桃山時代に、 イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが 豊後府内(大分・臼杵)に設立。
その後、豊臣秀吉のキリシタン弾圧を逃れ、天草に移転。(引用先)
※遣欧使節(けんおうしせつ)の四少年  
天正10年(1582)2月20日、有馬のセミナリヨの生徒であった四人の少年が、長崎を出帆した。日本人として初めてヨーロッパを公式訪問した。
 大友宗麟の名代伊東マンショ(日向)と大村純忠のおいで有馬鎮貴の従弟の千々石ミゲルが正使となり、波佐見出身の原マルチノと中浦出身の中浦ジュリアンが副使をつとめた。遣欧計画を立てたのはワリニアーノ神父。 そのころヨーロッパでは、日本にいる神父たちの報告によって日本への関心が高かった。彼は、日本の少年たちをヨーロッパの人々にじかに見てもらい、帰国後は少年たちに、ヨーロッパでの見聞を語ってもらって、日欧の親善に役立てたいと考えたのである。 インド、アフリカを経てポルトガルに着き、スペインへ。ここでは国王の、ローマでは教皇の謁見を賜った。はるばる東洋からやって来た少年たちを見て、老教皇は涙したという。 一行は、ヨーロッパで親善に努め日本への理解を深めさせ天正18(1590)年夏に帰国した。 (引用先) 
※天草学林(アマクサコレジオ)はどこにあったか
その跡地をめぐって、本渡市、天草郡河浦町両説があり、昭和30年の始めから、郷土史家を中心に論争が展開されているが、未だ両説とも文献、遺物の決定的な証拠は示されていない。アマクサコレジオについての記述は当時唯一、イエズス会の宣教師達が記した書簡等に残っているが、残念なことに天草のどこにあったのか場所を示す記述がなく、その所在地については現在も「謎」のままだ。アマクサコレジオは日本の文献には一切記述がない。このため唯一、イエズス会の宣教師達が残した書簡等に頼らざるを得ない。しかしラテン語ポルトガル語などで記述された外国文献の原典を解読できる研究者は少ない。これがコレジオ研究を困難なものとしているのが実状だ。
1958年、郷土史家の鶴田倉造氏が天草殿の居城地は河内浦で、その地にコレジオを誘致したとする「河浦説」を提唱。また発掘調査も河浦町教育委員会によって河浦中学校校庭、同町天満宮、崇円寺等で行われたが、コレジオ跡の遺構は発見されず、「河浦説」の仮説は依然、立証されていない。(引用先) ●キリシタンは、小西行長の朝鮮出兵後も普及し、深海を中心とする「宮野河内」「上平」「下平」「浅海」などに、明治維新までお寺がなかったのは為政者が、「天草久種」(ドン・ジョアン)「天草伊豆守種元」(ドン・アンドレア)「小西行長」(ドン・アコスチノ)など洗礼を受けた武将たちであり、行長はキリシタンに転宗した者には、一年間の年貢を免除した。そして、領土内に「神社」や「お寺」の存在を認めず焼き払ったため、乱後、「浄土宗」や「浄土宗新宗」が進出したときは、村は空っぽだったのである。(引用先) ●船戦を得意とし、密貿易で台所を潤したとされる「天草五人衆」は互いに連合・敵対を繰り返しながら、16世紀の中頃、領地を確定しました。その1人、大矢野氏は、竹崎季長の「蒙古襲来絵詞」にも登場します。のちに「天正の合戦」を経て小西行長に吸収される大矢野氏一族の歩みを振り返ります。(引用先)●討死は、知行取90人、切米・扶持取200人、都合290人であり、手負は、知行取465人、切米・扶持取1663人、都合2128人であり、討死・手負の家臣は総数2418人に及ぶ。
(引用先)
●籠者之覚(「御家中文通之内抜書」所載)
知行方奉行沖津作太夫が、寛永14年12月6日付で天草・島原一揆に関係して捕縛し、入牢させた者を書き立てたものである。籠者の人数は熊本の本籠・新質屋に47人、飽田郡・益城郡の在籠に9人である。熊本の籠者の大部分は、(天草)四郎の類縁者・関係者として捕縛された者たちである。そのきっかけとなったのは、寛永14年10月30日に、天草一揆の中心人物渡辺小左衛門が熊本藩領宇土郡郡浦で捕縛されたことである。小左衛門は、捕縛直後の宇土郡奉行による仮取調べにおいて、熊本藩領に潜入した目的を、宇土郡江部村庄屋次兵衛の隣に住む四郎の母・姉・妹を天草に連れ戻すためだと自供する。渡辺小左衛門の自供から、小左衛門・瀬戸小兵衛の一行のほかに、宇土郡江部村の「四郎一類」、小左衛門の「宿主」となった宇土郡郡浦の九郎右衛門の一類、宇土郡江部村庄屋次兵衛の一類が捕縛され、入牢させられて吟味を受ける。藩当局は、四郎の在所・すみかを特定し、四郎の母・姉・妹をはじめ、これだけの関係者を吟味しながら、天草四郎なる人物の実相には迫りえていない。
(引用先)熊本大学電子図書館・天草四郎
●籠者吟味伺書1通*
一揆終結直後、熊本で入牢させられている者たちの処置に関するものである。No.41は、寛永15年3月4日付で藩主忠利の意向を伺ったものである。「上使へ進之候」「ゆるし可申候」「長さきより之返事次第」など、忠利の自筆の指示が書き込まれている。No.42は、忠利が同年3月6日付で、幕府上使松平信綱・戸田氏銕に籠者の処置について指示を仰いだものである。文書上側の付札が上使衆の指示である。この日、熊本で入牢させていた者のうち、瀬戸小兵衛一類、四郎の母・姉・妹・甥などは原城の陣所で処罰され、大井楼に晒されており、忠利は残る籠者について指示を仰いだものである。籠者のうち「四郎親甚兵衛下人」の弥右衛門は、主人である甚兵衛・四郎について肝心なことはなにも供述できず、上使も処置を細川氏に任せている。また、渡辺小左衛門の「宿主」となった宇土郡郡浦の九郎右衛門は「心ハきりしたん」であることを供述し、家族全員死罪とされる。なお、天草四郎の在所とされる宇土郡江部村の庄屋次兵衛一類は忠利の判断で全員赦免され、上使へ伺いを立ててはいない。庄屋次兵衛などは、隣に住んでいたという四郎およびその家族について最も客観的に供述できる立場にあったであろうが、結局、藩当局は在所の庄屋からも具体的な供述を引き出しえていない。宇土郡江部村にいたという四郎と天草四郎なる人物との間には、人為的な乖離を感じる。(引用先)熊本大学電子図書館・天草四郎
●山田右衛門作口上写 1通*  
本文書は、一揆勢幹部の中で生き残った人物として知られる山田右衛門作の口書(自白調書)であり、比較的信憑性は高いとされている。右衛門作は、一揆勢の幹部として、領主側(とくに旧領主有馬氏)との交渉にあたっているが、口書の内容は意外に具体性に乏しい。また幹部として、大将の天草四郎とはある程度接触があったろうが、四郎に関する記述も曖昧である。取調べにあたった上使衆が、あたりさわりのない程度の自供内容を公表し、詳細を秘匿した可能性もある。
(引用先)熊本大学電子図書館・天草四郎

■ 領主のキリシタン弾圧

●天文18年(1549)ザビエルが鹿児島に上陸して以来、キリスト教は九州近畿を中心に西日本一帯にひろがっていた。 ヴァリニヤーノによると天正11年(1583)、当時の日本管区は3つの区域にわかれ、第1教区は、「下」と称し、有馬・大村・天草・平戸などで、11万5千人、第2の教区は、豊後(大分)で1万人、第三の教区は京都で5千人のキリシタンがいた。もっともキリスト教が発展したのは、有馬氏が領する島原半島であった。キリシタン禁制は天正15年(1587)豊臣秀吉が出した宣教師追放令が始発である。これは、キリスト教が神国日本を滅ぼす邪教であると国外国内に宣言したもので、江戸幕府のキリシタン弾圧の原点となった。以後、厳しい弾圧政策が打ち出されるのであった。
(注2)により、除封されたがその所領は、子、直純に与えられた。直純もキリシタンであったが、将軍に棄教を強制され、領内のキリシタンの処刑、教会の破壊、宣教師の追放をはじめとするキリシタンに対する弾圧をはじめた。直純の弾圧はさらにすすみ、挙げ句の果ては、キリシタンであった異母弟2名や重臣とその家族まで処刑したのであった。
南有馬市HP:島原の乱歴史背景
■ 有馬氏の弾圧
島原では、当時領主であった有馬義直が家臣ともども洗礼をうけ、キリシタンとなった。このため領民も次々と改宗し、領内の寺社は教会へとかえられていった。 子 晴信時代に入ると、一旦キリシタン禁圧策をとったが、軍事上キリシタン勢力との連合を必要とせざるをえなかったため、キリシタン保護策を打ち出し、有馬支配下の領民すべて領主自らがキリシタンとなることを勧め、領民すべてキリシタンとなった。これにより仏教徒は弾圧をうけ、寺社はことごとく破壊された。 慶長17年(1612)その有馬晴信が岡本大八事件(注2)により、除封されたがその所領は、子 直純に与えられた。直純もキリシタンであったが、将軍に棄教を強制され、領内のキリシタンの処刑、教会の破壊、宣教師の追放をはじめとするキリシタンに対する弾圧をはじめた。直純の弾圧はさらにすすみ、挙げ句の果ては、キリシタンであった異母弟2名や重臣とその家族まで処刑したのであった。
 しかし、直純のキリシタン対策は徹底を欠き、長崎奉行長谷川が弾圧の指揮をとった。長谷川は島原のキリシタンに対し、威嚇と懐柔をまじえた命令を出したがこれに抵抗したので長谷川は軍隊とともに有馬領に侵入し、キリシタンらを拷問かけ棄教させ見せしめのためにと信仰のもっとも堅い17名を斬首した。南有馬市HP:島原の乱歴史背景
(松倉氏の弾圧)
 有馬直純は、その後日向に加移封 (注3)となり、新領主として松倉重政が有馬領に入部した。島原の乱の主因となる迫害を行った松倉氏も1621年ごろまでは、宣教師を保護していたのであった。
 しかし、将軍による宣教師追放について例外と延期を許さず火刑にする命令が布告された1627年、松倉重政も自らの生命と領地を救うべく、キリシタン弾圧をはじめた。キリスト教の根絶をはかるため、領内の役人にキリシタンの名簿を作成させ弾圧の強化を図ったり、代表的な信者に対しては、みせしめのため雲仙の硫黄泉に投げ込むなど異常に思えるほどの非道な拷問がおこなわれたのであった。これにより、当時の島原・天草のキリシタン農民は、残酷極まるキリシタン弾圧により、ほとんどのキリシタンが棄教したといわれている。
(注2) 岡本大八事件
 晴信は、有馬家父祖の代に領していた肥前杵島、藤津、彼杵の3郡が以前龍造寺氏に奪われその後鍋島氏の領地となっていたのをとりもどしたいとの野望を持っていた。このことを知った徳川家康の執事の与力岡本大八は、先のデウス号爆沈の功に対し、家康から領地の加増の内意が主人である本多正純にあったので、領地に対する希望があれば、しかるべき計らいを行うので幕府の重役たちに贈り物をする必要があると話を持ちかけられ、晴信は白銀6千両ほか多額の金品を贈り旧領地の下賜について大八に依頼した。その後、1年余り経っても大八から音沙汰がないので直接本多正純に旧領地の下賜の恩賞について決裁を求めた。これにより岡本大八の詐謀が暴露され火刑に処された。晴信は賄賂を贈り他の領地を望むとは領主としてあるまじき行為であると閉門謹慎を命ぜられた後に切腹。この事件により一時有馬領は没収されたが、家康の命により、嫡子直純に有馬領四万石が下賜された。父が処刑されたにも拘わらず14代城主となれたのは異例のことで、理由には15歳の時から側近として仕えていたこと、家康の曾孫国姫を妻にしていたことであったといわれている。
(注3)領地を加増され、領地の移転をすること。 (注2)により、除封されたがその所領は、子 直純に与えられた。直純もキリシタンであったが、将軍に棄教を強制され、領内のキリシタンの処刑、教会の破壊、宣教師の追放をはじめとするキリシタンに対する弾圧をはじめた。直純の弾圧はさらにすすみ、挙げ句の果ては、キリシタンであった異母弟2名や重臣とその家族まで処刑したのであった。
南有馬市HP:島原の乱歴史背景
■ 松倉氏の苛政
(注2)により、除封されたがその所領は、子 直純に与えられた。直純もキリシタンであったが、将軍に棄教を強制され、領内のキリシタンの処刑、教会の破壊、宣教師の追放をはじめとするキリシタンに対する弾圧をはじめた。直純の弾圧はさらにすすみ、挙げ句の果ては、キリシタンであった異母弟2名や重臣とその家族まで処刑したのであった。
注3)となり、新領主として松倉重政が有馬領に入部した。島原の乱の主因となる迫害を行った松倉氏も1621年ごろまでは、宣教師を保護していたのであった。
 元和2年6月、有馬氏のあと新領主として入部した松倉重政は、いったん日之江城に入ったが、近代城下町としては、日之江・原城とも狭小であることから幕府の一国一城の令により廃城とし、伝統的勢力が強い旧有馬領の中心地である場所を離れて新しい支配方法を樹立させるため、島原に新たな城を築いた。当時島原藩松倉氏は4万石と唐津藩の領知高の3分の1でありながら、家臣団は唐津藩12万石なみをもっていたといわれている。農業生産が低い領国でありながら、実高を大きく上回る12万石の軍役など負担することを幕府に願っており、可能な限りきびしく年貢などの取り立てを行ったとおもわれる。 松倉氏は、島原城の完成した後の寛永2年ごろから領内の検地をはじめたといわれている。検地の内容は表高4万石に対し12万石の打出(増分)があり、2〜3万石の新地開田をし、従来あった田畑を無理矢理倍近くの石高にした検地方法であった。このことから苛斂誅求(注4)が島原の乱の原因とされているが、それを立証する当時の藩政史料はない。しかし、ポルトガル人コレアの報告書には、島原の乱の原因は有馬の領主である松倉長門守(勝家)の苛酷をきわめた虐政によるもので、年貢を納められない人々は、迫害を加えられ、妻・娘などとらえられ水攻めなどを行いその様子は暴虐であったと記述されている。またオランダの商人ニコラスの書簡には、ミノ踊りと逆吊りのことが記載されている。「ミノを頭と胴に結びつけ、両手は綱で背後に堅く縛られ、ついでこのミノの外側に火を放つ」と説明があるが、これについては、苛政とキリシタン拷問と混合されていると考えられている。また、賦課税については、鍋島藩の史料に「囲炉裏銭・窓銭・棚銭・戸口銭・穴銭・頭銭を掛ける」とある。 松倉氏の苛政のため、農民が困窮が極限に達したのは、重政の子勝家が藩主となってからである。重政の時代には、城下町の建設、石高の増大などの重圧はあったものの、連年の不作凶作はなく、また幕府への出費が相対的に少なく長崎の貿易上の収入があったが、勝家の時代には、連年の不作凶作、参勤交代・江戸城普請が課せら、財源確保のために、租税を高く課し、未進米の催促のため拷問をかけたものとおもわれる。 (注4) 税などを厳しく取り立てること。
(注2)により、除封されたがその所領は、子 直純に与えられた。直純もキリシタンであったが、将軍に棄教を強制され、領内のキリシタンの処刑、教会の破壊、宣教師の追放をはじめとするキリシタンに対する弾圧をはじめた。直純の弾圧はさらにすすみ、挙げ句の果ては、キリシタンであった異母弟2名や重臣とその家族まで処刑したのであった。
南有馬市HP:島原の乱歴史背景
■ 乱前の自然現象
(注3)となり、新領主として松倉重政が有馬領に入部した。島原の乱の主因となる迫害を行った松倉氏も1621年ごろまでは、宣教師を保護していたのであった。
(注2)により、除封されたがその所領は、子 直純に与えられた。直純もキリシタンであったが、将軍に棄教を強制され、領内のキリシタンの処刑、教会の破壊、宣教師の追放をはじめとするキリシタンに対する弾圧をはじめた。直純の弾圧はさらにすすみ、挙げ句の果ては、キリシタンであった異母弟2名や重臣とその家族まで処刑したのであった。
(注3)となり、新領主として松倉重政が有馬領に入部した。島原の乱の主因となる迫害を行った松倉氏も1621年ごろまでは、宣教師を保護していたのであった。
(注4) 寛永10年代に入り、天候の異変が続き、農作物が不作だった。このことは、佐賀鍋島藩・細川藩の史料などに書かれている。寛永11年以来島原・天草とも凶作が続き、飢饉となり餓死者がでて、農民は窮乏のどん底に陥る状態であった。凶作を印象づけるかのような、朝焼け夕焼けが特に鮮やかに映え、桜が狂い咲きしたという転変地異的現象が伝えられている。細川藩の史料には、寛永12年7月九州地方に大風があり、田畑に多くの損害がでた。翌13年の夏には、干ばつがあり多くの餓死者がでたという記録が残されている。このような状況で農民は餓死を覚悟して耕作放棄する事態に生じた。この天候はほぼ全国的なものであったといわれ、幕府は寛永14年には、大風雨による被害状況を巡視使に調査させている。
(注2)により、除封されたがその所領は、子 直純に与えられた。直純もキリシタンであったが、将軍に棄教を強制され、領内のキリシタンの処刑、教会の破壊、宣教師の追放をはじめとするキリシタンに対する弾圧をはじめた。直純の弾圧はさらにすすみ、挙げ句の果ては、キリシタンであった異母弟2名や重臣とその家族まで処刑したのであった。
南有馬市HP:島原の乱歴史背景
■ 乱勃発の原因
(注3)となり、新領主として松倉重政が有馬領に入部した。島原の乱の主因となる迫害を行った松倉氏も1621年ごろまでは、宣教師を保護していたのであった。
(注2)により、除封されたがその所領は、子 直純に与えられた。直純もキリシタンであったが、将軍に棄教を強制され、領内のキリシタンの処刑、教会の破壊、宣教師の追放をはじめとするキリシタンに対する弾圧をはじめた。直純の弾圧はさらにすすみ、挙げ句の果ては、キリシタンであった異母弟2名や重臣とその家族まで処刑したのであった。
(注3)となり、新領主として松倉重政が有馬領に入部した。島原の乱の主因となる迫害を行った松倉氏も1621年ごろまでは、宣教師を保護していたのであった。
(注4) キリシタン弾圧、松倉氏の苛政、天変地異など、多くの要因があるようだが、島原の乱は、元小西行長の家臣らによるキリシタン立ち帰りの布教活動やキリシタンへの寿庵の廻文(注5)に述べられている最後の審判、有馬の三吉、角内 (注6)らのよる礼拝など、蜂起といわれる原因がキリシタンに関係することが多く見られ、キリシタン一揆ともいわれている。しかし、学界の通説では、乱の本質は農民一揆としているようである。
 原因説には様々な説がある。「藩主による重税に対する庄屋僧主導の農民一揆であるが、彼らの巧みな演出により、現象的には蜂起の当初からキリシタン一揆の形態であった」といわれるキリシタン一揆説、しかしこれは、藩の失政による幕府からのとがめをおそれた領主が天下公認のキリシタンらに責任をおわせたのもではないかともいわれている。ほかにも「一揆がいかなる意識をもって団結したのか実証することがむずかしい、キリシタン信仰への弾圧によるものか、虐政に対する抵抗なのか決めかねる」原因不明説、「領主への農民の怒りが動機となり爆発、それに宗教的色彩を加えたといわれる」段階的発展説などがある。乱当時、矢文によりかわされた一通には、領主松倉の苛政のことを記し、「かんばつで不作であるため訴訟を申し上げたが、取り上げてもらえなかった。そればかりでなくこれまでにない高い年貢を命じられたので、一揆は農民のするべくことではないが、松倉氏の政治が異常であるとのべ、領主松倉の首さえ一揆側に差し出してもらえば、籠城している一揆軍全員投降する」といった領主への不満により蜂起した内容が書かれている。しかし、乱の原因となったといわれる飢饉化、キリシタンの蜂起は、松倉氏の苛政というよりも、近代大名の領主財政に負担を課した幕府にあるともいわれている。松倉氏が苛政をおこなったのも根本には幕府の大名統制に対する参勤交代制度・公儀普請役の負担が重くのしかかっており、農業以外収入源がなかった大名にとっての財源確保は農民への過大な年貢取り立て方法へつながったと考えられている。だが、幕府は乱の責任を松倉氏の悪政によるものとし、仕掛人が幕府である乱の本質を隠すため、松倉氏の領民統治の不手際により1万人もの武士が一揆軍により殺傷されたこと、それとこのような反乱を再びおこさないよう大名に対するみせしめのため、松倉勝家を斬首(打首)とした。
(注5) 寿庵については、詳細不明で加津佐村に潜んでいた著名なキリシタン武士か宣教師ではないかといわれる人物で、10月15日付け寿庵と署名してある廻文(耶蘇天誅記)で、内容は、これを各村々の庄屋にまわし、庄屋は、寿庵のもとに集まること、キリシタンでないものは、キリストの最後の審判があるので早くキリシタンになること、などの記載されている。
(注6) 三吉は、有馬南の庄の弟であり、角内は、同村の農民である。両人は天草大矢野にわたり、四郎より司祭になるための方法を学び、有馬で多くの立ち帰り信者とともに礼拝を行い捕らえられた人物。
南有馬市HP:島原の乱歴史背景 >
●天正15年(1587)、秀吉のバテレン追放令(禁教令)が出されたが、キリシタン宗に対する弾圧はさほどではなかった。徳川家康が幕府を開いてからも、慶長17年(1612)に幕府領、翌年に全国禁教令が出るまで、キリシタン宗に対して黙認に近い状態が続いていた。しかし全国禁教令により、慶長19年(1614)、幕府は宣教師やキリシタン大名として高名であった高山右近内藤如安を国外へ強制追放し、本格的に弾圧を始めたのである。このときペドロ・カスイはマカオへ追放された。
●一揆勢の渡海能力 海の指揮者が
●関ヶ原の戦の後、東軍の熊本城主加藤清正は、西軍主将だったキリシタン大名小西行長の本拠宇土城を制圧し、司祭を捕虜とした。その解放交渉に、ヴァリニャーノはマルチノを派遣した。(こだわり歴史考天正使節その後)

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