熊本県歴史のひとこま「合志義塾」

合志義塾

皆さん、「合志義塾」をご存知でしょうか?
戦時の熊本、藤崎宮蹶起(けっき)事件に参加した16歳の青年があった。当時を回顧した、ご本人、平床和敏氏のページを見つけました。終戦の混乱時、節を曲げず、思うところを訴えんとする青年の行動は、如何なる思想に培われたものであろうか?それは、当時の国家から強制された尊皇思想のみにあらず、実学に根ざした国民側からの尊皇思想とも思われます。明治25年、合志郡(菊池郡)西合志村黒松に創立された「合志義塾」。「教育勅語」に触発され、農民の為の学問の私塾として設立された合志義塾を調べている中で知りました。以下全文引用(あとがき含む)してご紹介致します。


(以下引用は平成17年4月27日付けの文章です。)


「私の二十世紀」

私は昭和四年九月二十八日生まれで七十歳になります。私にとって、二十世紀の思い出とは昭和二十年の終戦が最大の思い出であります。私は当時中学の四年生で十六才でした。あの八月十五日天皇陛下の終戦の玉音放送を正確に聴き取ることができませんでした。終戦直後の混乱は今の平和の時代では考えもつかないことですが[中国軍が博多湾に上陸して熊本に向かっている]と言うようなデマが飛んだり、「アメリカ軍が鹿児島に上陸した」とか、色々なデマが飛び交っていました。熊本市中は、自転車、リヤカーの列で、女性や子供達は田舎に避難する為にごつた替えして居ました。終戦直後の八月十七日混乱の中、日本陸軍は武装解除され解散しました。


とにかくその混乱の中で「日本をそして熊本を守ろう」と立ち上がった人たちが居ました。合志義塾の工藤誠一先生を隊長として、北原一穂先生、児玉亀太郎先生、中島淑人先生、日本談義主宰荒木精之先生、菊池神社の時の宮司上米良利春氏等々憂国の士が集まり「尊皇義勇軍」が結成されました。呼びかけに応じて「尊皇義勇軍」の旗の下に五高、高等工業、語学専門学校、女子隊員など続々と集まりました。総数参百数十名にもなりました。しかし東京の状況が全然わかりません。工藤誠一先生、坂本幸男先生、お供の私と参名で上京して東京の状況を、偵察をする事になりました。始めは六師団の三木参謀のお世話で健軍の飛行場から軍用機で行く筈でしたが、交渉がまとまらず、汽車で行く事になりました。当時は汽車の切符を手に入れるのは大変困難でした。六師団の三木参謀、林参謀ご両名の協力で軍用の二等車の切符を二十枚ほど手に入れました。軍用切符なので、私も軍服を着てゆくことになりました。体が小さかったので一番小さな軍服でも、がぶがぶで、大変困ったことを憶えております。


当時最も恐れられていた。特高警察に、怪しまれ無いよう、三人別々に乗ることになりました。しかも、乗車する駅も熊本駅、上熊本駅、植木駅、と、それぞれに別れ別れに乗りました。
それでも、八月十九日軍用の二等車の切符で、漸く乗れたのは無蓋貨車でした。当時は時刻表通りに走る列車など有りませんので、とにかく、東京方面に行く汽車に乗り込む。と言う状態でした。


関門海底トンネルもその無蓋貨車で通りました。トンネルの中は潮水がまるで雨のように じゃんじゃん降ってきたのを憶えております。広島駅では原子爆弾の跡も生々しく、赤茶けた荒涼とした。焼け野が原でした。それは異様な姿で言葉もありませんでした。何時発車するとも判らず、広島駅には随分長い間停車していました。兵隊さんも大分乗っていましたが、中には汽車から降りて、飯ごう、で炊飯を始める人も有りました。まもなく発車しましたが、暫くしてから猛烈な夕立が来ました。私たちも他の人も、全部の人が一斉に、上に着ている物を脱いで、リュックサックに被せました。リュックサックの中には大切な食料が入っているからです。熊本より、持つて来た、おにぎりには梅干しを入れて炊き、少しでも長持ちさせる工夫をしてありましたが、真夏の無蓋貨車の暑さには勝てず、広島に着いた時には腐敗していました。無蓋貨車で、雨でずぶ濡れになつて、トンネルを、くぐるので、トンネルを出たときには 全員真っ黒けで、お互いを見ながら、大笑いした事もありました。そんな無蓋貨車の時代でした。


 色々なことが有りましたが、苦労を重ねながら、東京に着いたのは、夜でした。さすがの東京も終戦直後は真っ暗でした。ちんちん電車の中もやはり真っ暗でした。
先ずは宮城に参拝、それから靖国神社に参拝しました。前の日には宮城広場において、日本の行く先を案じつつ数人の愛国者の人々が割腹自殺をされたとのお話を聞きました。


東京では 工藤先生のお知り合いで、終戦当時日本の行く末を心から憂えておられた大人物にお目にかかる事が出来ました。
 安岡正篤先生(終戦に際して詔勅えを起草されたと言われている)
 山崎延吉先生(農民の父と言われる。工藤先生の師)
 西村展蔵先生(熊本甲佐の町の出身で思想家)
 佐藤幸徳中将(陸軍中将終戦当時の陸海軍の状況を良く知る人)
 迫水久常氏(終戦詔勅の作成に携わる、貴族議員後の郵政相) 
 三上卓氏(五一五事件の時犬飼首相と問答本人当時海軍中尉)
等々、当時の識者に次々とお話を聞きながら次の様なことが解りました。
特に合志義塾の大先輩で、当時、昭和天皇の侍従武官で有った佐々木九一氏に、ポッダム宣言の承諾か拒否かの御前会議の模様をお聞きしたとき。 混乱した御前会議を決着する為に、天皇のご聖断を仰ぐことになり、昭和天皇のご聖断によつて決着されたとの事でありました。
 
終戦のことにつきましては、今日の日経新聞「春秋」の欄に有りますように(02/12/05)、ポッダム宣言の諾否を決める終戦の御前会議で、多数決による決着を排し、天皇のご聖断を仰ぐように図った、米内光政 海軍大将の進言によって、昭和天皇お一人のご聖断によって決められたと事。また終戦のご詔勅は軍部の過激派の妨害に会いながらも、関係者の大変なご苦労によつて発布されたとの事。「昭和天皇の身の安全だけは条件付きでーー」「ポツダム宣言」を受諾してはとの側近の意見も退けられて、「私の事は考えなくても良い」と仰せられて。

日本民族の滅亡を憂慮され「ポツダム宣言」を受諾して、無条件降伏を決断されたのは昭和天皇ご自身で有ります。それで急遽熊本に帰り、「尊皇義勇軍」は直ちに解散いたしました。今の日本が有るのは、その時の昭和天皇お一人のご聖断のお陰ではないかと考えます。

もしその時、軍部の圧力に押されて、本土決戦の道を選んで居たら、日本本土は焦土と化し、挙げくの果ては、英、米、露、中、仏、和蘭、等により分割統治され二度と立ち上がれ無かったのではないかと思います。 「ポツダム宣言」を受諾し無条件降伏を決断して日本民族の滅亡させない為の天皇陛下のお気持ちであったと言うことです。

始めてマッカーサー元帥と昭和天皇の会見の時に、昭和天皇より「私の事はどの様にされても構いませんので、日本国民の事は宜しくお願いします」と仰せられたので、この事は、マッカーサー元帥をして、「昭和天皇は世界で第一級の紳士でる。」と感嘆して米国本国より昭和天皇を戦争犯罪人として告発するとの通達に対して断固反対して告訴をさせなかつた事実で解ります。

熊本県立図書館の蔵書について
話は変わりますが、現在の県立図書館の蔵書は元陸軍幼年学校の蔵書が基本になっています。終戦当時、陸軍幼年学校の蔵書がアメリカの進駐軍によって没収されることを防ぐため 「尊皇義勇軍」 の副隊長 北原一穂先生 が六師団の林参謀 の要請を受けて、トラック三台に積み込み、合志義塾に保管しました。それらが、今は県立図書館に収まっています。今でも県立図書館の図書の中には、最後のページに「陸軍幼年学校」の印が押してある本が多々あると思います。


これは、終戦直後混乱の中で、日本陸軍が、解散して、日本を守る人が、い無くなつた時に、身を挺して日本を守り熊本を守ろうとした人たちの、報道されることの無かった物語であります。

熊本で実際にあった。本当の事です。私も、その中の一人であることを、誇りに思っております。原稿の中では、ご本名を使わせて戴きました。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。 合掌


参考資料として 合志義塾農道部発行 【耕作の歌】 から引用致しました。

平成十一年五月五日 平床和敏 記す。


あとがき
この原稿はNHK私の二十世紀に応募して、採用され無かった原稿に少し書き加えました。もしもKSN会員の中に、終戦直後、藤崎神宮に尊皇義勇軍として参加された方があれば、ご一報頂ければ幸いです。


以上、全文引用
平床和敏氏のホームページの「私の20世紀」より全文引用致しました。平床氏は昭和17年に合志義塾中等科1年に入学して昭和20年の9月まで在学。


※「教育勅語」明治23年10月23日発布、「教育ニ関スル勅語」。起草したのは、元熊本藩士で儒学者「元田永孚(もとだながさね)」明治維新後、宮内庁出仕、明治天皇に近侍。横井小楠に師事。(教育勅語現代語訳


※合志義塾(こうしぎじゅく):明治23年発布の「教育勅語」に感銘を覚えた工藤左一、平田一十という二人の青年教師(当時26〜7歳)が、 lang=EN-US>(当時、尋常小学校4年まで)(参:教育制度の変遷学校)を終えた農村の子弟にも更に教育の機会を与えようと、その熱情によって明治25年、西合志村に設立した私塾。

●精神 「一心ニ、勅語ノ御精神ヲ奉體シテ之レヲ実行スルコト」
●理想 「闡明公道 拯群萌 発揮忠孝 化八紘」
●三先生「和気清麿公 二宮尊徳先生 元田永孚先生」
●尊皇の志を持った「合志義塾」である事

というような独自の教育方針のもとに約7千人もの人材を育てる。戦後の6・3制義務教育の発足によって閉塾。


※合志義塾の関係者へのインタビューを通して、その精神を解説してある一冊の本を紹介しておきます。鈴木滿男著「帝国の知の喪失」展転社刊


『合志義塾の時代・西合志町』(九電メルマガ)


※国会質疑にある合志義塾抜粋
(第026回国会 予算委員会第三分科会 第1号 昭和三十二年三月二十九日)

林田正治君  それでは、私もう少し具体的にこの問題を掘り下げてお聞きしたいと思います。ただ、局長もすでに御承知だと思いまするが、熊本県の菊池郡の西合志村にありますところの、いわゆる合志義塾というのがございます。御承知と思いまするが、あの塾が今日まで農村の経営のために非常に努力をいたし、いわゆる農村のバツク・ボーンとして相当の功績を残しましたことはすでに御承知のことと思いまするが、ああいうようなものを町村と共同して、あるいは町村が指定されました場合に、ああいうものを町村のものとしてこれを働かせていただくというようなことはできないかということを、具体的な問題ですが、そういうことをお聞かせいただきたいと思います。

政府委員(大坪藤市君) 合志義塾の点は私も多少知っておるのでございます。ただいまお話しのありましたように、熊本の菊池郡におきましては相当有名な塾でございまして、これは今後どういうように運営していくかということにつきましても、いろいろ内部で研究いたしておるのでございまして、ただあれがそのまま農村建設隊というふうに肩がわりしていいかどうかということにつきましては、いろいろ研究しなければならないと思いますが、ああいうふうな義塾というものを何らかの形で、一つこの際利用できないかということにつきましては、今後も研究して参りたい、かように考えております。

○林田正治君大体局長の御答弁で了解いたしましたが、重ねて申し上げますが、今局長も御承知の通り、あの義塾というものは、これは熊本のみならず、全国的においても私は相当有名なものである、現に昭和六年の大演習の際には、侍従があそこに差遣されたような歴史的の存在であることも御承知の通りでありまして、今日まで決してあそこの塾生が何十人というほどもおりませんけれども、現在は十人ぐらいだと思いまするが、もう少しくこういう機会を利用しまして、国家の手によってこれが育成されますならば、私は日本の農村建設には大きな役割をするものである、こう考えまするので、どうか一つ特別な便宜でお考えになりまして、この予算の中に適用を受けますように、あるいはまた、町村と共同してできまするように特別な心配をお願いいたしたいと思います。

○政府委員(大坪藤市君) その点は、今後十分研究いたしたいと思います。


昭和22年 西合志(熊本県)〜農村振興支えた私塾
  (にっぽんの記憶九州発・読売新聞西部支社)


inserted by FC2 system